YellowCat たろうに聞いた!!

君の胸で香箱座りをしていたあの頃、僕はただ咽を鳴らしていただけではなかった。この世界の意味を、ずっと考えていた。アスファルトの焼ける匂い、彼岸花が咲いた用水路、速度超過した黒いクラウン、僕の毛が付いたブレザー。君が知っていたものも、知らなかったものも、ずっと見てきた。そして、考えてきた。君が生きるこの世界の意味を。その答えを、ここに、示したいと思う。

病んでいる自分を慰める会を自分で主催しちゃう同僚が憎めないのはなぜか?

 仕事で衰弱している同僚がいるようだ。ようだ、というのは、私は今彼とは直接顔を合わせる場所にいないため、他の同僚経由で耳にしたのだ、彼の近況を。なにやら、自分を慰める会を開催するとのこと。私にも、出てほしいとのことだった。

 自分を慰める会を、自分で開催してしまうのか。それは、少し今風に言うと”痛く”ないか。それを聞いたとき、正直そう思ってしまった。君ももしかすると、私と同じ感想を抱くかもしれない。ただ、結果として私は、間違っていた。彼は、”痛くない”。

 私が彼を”痛い”と感じたのは、安易に人に甘えることをよしとせず、個人的な苦痛は耐え忍ぶものだ、という古典的な武士道精神が根底にあったからだ。実際、私は剣道部だったが、顧問には「周囲からお前はもう休めといわれない限り休んではならない。お前が休むのを決めるのはお前ではなく、周囲だ」と言われながら厳しい稽古に取り組んだ記憶がある。こういった「他人に弱みを見せるのは恥」「個人の課題は基本的に個人で解決すべき」のような価値観を無意識にもっていた。昨今も少なからず見かける自己責任論のようなものだろう。

 しかし、このような私の人生への姿勢、つまり価値観は、はっきり、間違いだと断言できる。

 まず、仕事上で疲弊したのであれば、程度の問題はあるがそれは「個人の課題」ではない。「職場全体の課題」である。「病んでしまう人を輩出するような職場」に課題がある。個人でこの課題に挑むとなると、ひたすら耐え忍ぶか、かなり高度な戦略と実行力をもって職場の課題を虱潰しにしていくことしかできない。しかし一社員の働きかけで職場全体の課題を解消できるとは、私には考えにくいし、中途で挫折した際のリスクが大きすぎる。どちらにしろ、結果としては心身に不調をきたし取り返しの付かないことになりかねない。

 そうなると、病み気味の同僚がとった行動は非情に合理的である。彼の課題は、そこで働く我々の課題でもあるのだ。我々は、彼の話を聞かなければならない。その上で何かできることがなかったとしても、ただ彼の現状を知るだけでいい。あらゆる課題の解決は、現状の認識から始まるものだ。ただ、我々の住む社会には、立ち止まる者を横目で一瞥し声すら発することもかなわない聾啞の豚もいるのだ。我々は、少なくとも私と君は、友人のために歩を止めることもできる。声を発することもできる。いずれ、聾啞の豚を捌きソテーにして貧しいもののため、もしくは高貴なもののためにサーブすることもできるだろう。

 彼自身は、愚痴りたいから愚痴聞いてくれそうな人集めて飲むぜ!くらいの気持ちだろうが、私は真摯に向き合わせていただきたい。

 君も、優しくあってほしい。優しくない人は、少なくともこの世界にはいらない。