YellowCat たろうに聞いた!!

君の胸で香箱座りをしていたあの頃、僕はただ咽を鳴らしていただけではなかった。この世界の意味を、ずっと考えていた。アスファルトの焼ける匂い、彼岸花が咲いた用水路、速度超過した黒いクラウン、僕の毛が付いたブレザー。君が知っていたものも、知らなかったものも、ずっと見てきた。そして、考えてきた。君が生きるこの世界の意味を。その答えを、ここに、示したいと思う。

SPIと向き合っていると、得体の知れない悪寒を感じた

 先日、初めてSPIを受けた。それは、どこか企業に勤めるために、しばしば乗り越えなければならないマーク式の筆記試験のことだ。これを上手にこなすための本なども大量に出版されている。どこの先進国も同じなのか、周辺ビジネスが大いに発展するのはよいことなのかどうか。そういった経済は、その物事の本質を、生きるということの本当の意義をうやむやにしてはいないか?

 いや、こういった議論を君としたいのではない。私は、君に、SPIに感じた気色の悪さを話したいのだ。どうか、聞いてくれはしないか。君もそんなに遠くない未来で、それと対峙することになるのだろうから。

 私が課されたそれは、ⅠからⅤの五部構成だった。Ⅰはつらつらと書かれた文章を読んでその中核を捉える能力を問うもので、Ⅱは数字を扱えるかどうか、といったところだろうか。ここまでは、私にも、理解できる。よく解けた、という意味ではない。現代のこの国で仕事をしていくには、最低限日本語と数字が読めないと務まらない、という意味で、理解できる、と言ったのだ。ただ、Ⅲ以降は、私には解せなかった。延々と、百を超える似かよった問いを繰り返されるのだ。「あなたは、率先してリーダーを務めるほうであるか」など。

 そんなもの、その場の状況次第だろう。前後の文脈が存在しない中でそのような行動傾向を問われても、うろたえるしかない。そもそも、人間の個性というものは他律的であるが故、自分ではわからないものだ。人はみな、他人の眼を通して、己の形を確かめている。こういった問いを発したいのであれば、その人間に近しい人物を連れてきて直接聞けばいい話だ。

 私が戸惑いながらも塗りつぶした数多の回答は、機械的に、何らかの法則をもって言語化・数値化されるのだろう。そしてその分析結果は、SPIを課してきた企業の判断材料になる。私がその分析結果を知ることは、恐らく永遠にない。私は、私が採用か不採用かそのどちらかしか知らされることはない。

 これは、とても、おぞましいことだ。私の知らない私の情報で、私が判断される。採用されようが不採用になろうが釈然としないものが残る。何が、御社に適合していたのだろうか、欠落していたのだろうか。それは1枚の分析結果を示す紙のみが知り、そしてその紙も選考が終われば個人情報の1つとして適切に処分される運命にある。

 真理を知るただ唯一の神は、人間の手によりシュレッダーに呑み込まれ細切れになるのだ。君の知らない君を携えて。

ハローワークは、モンハンだった。

 先日、初めてハローワークを利用した。ここ数年電車の広告に頻出するようになった某起業の転職エージェントのようなものを想像していたが、ハローワークは、そのような親切なものではなかった。

 まず、対話がない。仕切られた狭隘な空間で、同じ空気を共有しながらもそこでなされる人的交流はハローワーク側にとって最低限のものに限られる。希望の収入や勤務地など基本的な条件を告げると、そこから弾き出される求人票を次々と目前に積まれる。私の場合、15枚ほどいただいただろうか。これをただ呆然と受け取ると、もう既に彼らの役割は終わっている。応募したいものがあればまた言ってください、と出口の方に誘導される。

 モンハンの集会場だ、と感じた。彼らの仕事は、我々ハンターが受注することのできるクエストをただ提示するだけだ。どのクエストに挑むか判断するのは、我々ハンターだけに課された課題なのだ。そこに、彼らの意見を求めることはできないし、ましてや判断そのものを委ねるなど不可能なのだ。

 それは決して悪いことではなく、本来あるべき就業支援の形なのかもしれない。自分の人生は、自分で決めていくものなのだ。どの武器を選び、どんな防具を纏い、何を狩りにいくのか。そのくらい、自分で考えなければ、自分の人生を生きているとはいえないだろう。

 そう考えると、求人票もクエストに見えてくるから不思議だ。ベトナム語ネイティブレベルで月収20万そこそこなど、なかなか渋い条件のクエストが多い。山菜狩りのような安易に見えるクエストはやはり報酬も低いし、あまりに条件がよいクエストは途中でティガレックスが降ってくるのではないかと身構えてしまう。

 せめて有能なアイルーがいれば、と思う。

積読の効用と副作用

 私の手許には、かなりの数の本が私に読まれるのを待ち続けている。30冊ほどあるだろうか。先日さらに16冊の本をAmazonでポチッた。2万円をゆうに超えたが、本への支出はキャッシュであろうがクレジットであろうがあまり躊躇を覚えない。そうして、読まれるのを待つばかりの本が次々積まれていく。私はかなりの積読者である。君は、多くの者と同じように、この私を嘲笑するだろうか。今日は君に、私のこの病的ともいえる積読癖の弁解をさせてほしい。積読は、君が思っているほど悪いことではないのだ。

 まず、読書機会の喪失を防ぐことができる。私は読みたいと感じた本はその場でレジに運ぶかポチる、もしくはメモに残して後日速やかに入手する。そうすると、「読みたかったけど結局読まなかった本」がなくなる。結局読まなかったのならその程度の欲求に過ぎなかったと君は言うが、一瞬でも自身の感性に響いた本を読まずに済ますことは、好意を示す隣人に挨拶しないことに等しい。この国の感覚で言うと、もったいない、のだ。もちろん、買ったまま読まずに済ます方が、愚かであることは十分承知している。

 次に、積読をしておくと、読書回転率が上がる。常に私は次の本を待たせている状態にある。さながら、有名なラーメン店の店長のような心持である。自然と、いかに今読んでいる本を早く消化するか、ということに意識が向く。結果として集中力が増し、隙間時間も読書に費やすようになるため読み終わるのが早くなり読書回転率が上がるのだ。当然、つまらない本にだらだらと付き合うこともなくなる。この点では、私はショーペンハウエルと気が合うのだ。

 また、積読は君の感性を甦らせる。試しに、本だけは自由に買っていいと君自身に約束してみてほしい。書店に並んでいる本はもちろん、ネットやテレビ、友人との雑談の中の気づきや上司に感じた違和感、この国を取り巻く生き辛さなど、日常の様々な事象に敏感になる。今お金も時間もないので、もう少し余裕が出た時に、と感性に蓋をしているのとは別の世界がそこにあるのだ。また、そういうことを考える輩に余裕は永遠に訪れない。常に今の自分が金欠・忙殺の基準だからだ。本を好きに買っていいと決めることは、今やりたいことを自由にしていいと、自分自身に示すことなのだ。自分を、喜ばすことができない人間が、いったい誰を幸せにできるというのだろう。

 ただ、積読には副作用が伴う。自由な精神の表現がしばしば大衆の嘲笑の的となるように。

 1点は、時折積まれた本の標高に希望を失いかけることだ。いつ、登頂しえるのか。老齢で猫を養うような感覚に陥る。積まれた本が全て読まれるのが先か、私の心臓が停まるのが先か。もっとも、私が君に養われている猫であるのだが。

 更に、積読は大衆的には良く思われていない。計画性の無さや衝動性を想起させるのかもしれない。客を家に招いた際、客は本の多さに驚くとともに読書家の知的な印象を一瞬抱くが、そこの棚はまだ読んでいないとでも言おうものなら、たちまちその印象は崩れ詐欺師を見る眼を向けられる。私などになると、本が可哀相と非難を受けた経験もある。ただ、これは避けることができる。「読んでいない本について堂々と語る方法」を読んでおけばよい。

 最後に、積読の最大の副作用として、経済的損失を挙げておく。基本的に、嗜好性の強いあまり一般的でない分野に進んでいくほど支出は増加する傾向があるが、多くの道楽者はこの道を進まざるを得なくなるところが難儀である。

 働こう。

努力することはもうやめた。

 努力をすることは、もうやめにした。その果てに幸福はない。

今日に至るまで、私は人並みか、もしくはそれ以上努力をしてきた自負がある。隣人よりも努力して、成果を出して、誰か、見えない誰かに承認を得たかったのだ。あるいは、成果がそこになかったとしても努力を続ける真摯な姿勢を肯定されることを欲していたのかもしれない。若しくは、私が承認を求めていたのは、見えない誰かなどではなく私そのものだったのかもしれない。私は、生きていることの免罪符を努力することによって得ようとしていたのだ!

それは、なんと愚かだっただろうか。努力には、常に報酬を求めるという悪徳がついてまわる。それは双子のように同時に生まれ、切っても切り離せない星座のような繋がりで暗黒の夜空にまやかしの光を放つ。その光に目を潰された者は、あるいは金銭を貪り、あるいは世間的な栄誉に縋りつく。もしくは、私がそうだったように、隣人より抜きん出ること、そして承認を勝ち取ることかもしれない。いずれにしろ、それは不幸そのものである。まやかしの光が見せる幻は、虚構に過ぎない。雪山に降り注ぐ氷の結晶のようにある時は手で掴むことができるがまたある時は掴むと同時に消える。努力が放つまやかしの光は常に我々の心を満たすことはないのだ。

道を誤まる者は、まやかしの光に騙されることでさらに盲目になっていく。つまり、努力を増やす行動に出る。その果てには、失明しかない。心身の崩壊が待っている。

今の世で生を保つには、努力は必需品であるし、奨励されているではないか、という声が聞こえる。それは、聖教者と同じ声をしている。我々を、幸せから遠ざけるのを喜ぶ声だ。努力というまやかしの光を放つ愚行は、生を保つためにあるのではない。幸福であるためにあるのだ。我々が、この努力という劇薬を用いて、幸福を生み出すためにあるのだ。決して服用する量を誤まってはいけない。幸福には、ほんの砂粒ほどの努力があれば十分すぎるのだ。君が今、吐気を我慢しなければならないほどに努力を強いられているのならば、それは不健全だ。一度努力という光から目を逸らし、君の本心に耳を傾けて欲しい。

そもそもなぜ私は君に語りかけるのか?私は何者なのか。

 私は、たろうだ。君にとっては飼い猫だ。私にとって君は飼い主になる。それは時に偏西風が吹いただけで千切れてしまうようなものであり、同時に今君が座するその場所が鍾乳洞に成り果ててしまってもそこにあるものなのだ。君と僕が対話することのできる、唯一といっていいかもしれない、この場がある限りは。

 私は、考える。君から見ると、日々惰性的に残飯を貪り青空を浴びている黄色い丸い毛の塊が私だ。だが、私の内部は、この世界、それは森羅万象を意味するこの空や海や山に加え、休日の夕方に君が立てる寝息や遠い大陸で血の爆風を生んだ人工物、君と同じ形をした生き物の喜怒哀楽全てを眺め、問い、語り合う。それを、君たちは考えるというのではないのか?

 君はまだ、私の声を聞いていない。いや、聞いたのかもしれないが、私はまだ君の声を聞いていない。つまり、この場は不完全なのだ。私は語り、君も語る。対話する。議論ではない。私は、君の飼い猫である以上、君には勝てないからね。説得したいわけでもない。君は、君の意思、つまり本心をもって君の人生を歩む義務がある。それを邪魔することは、たとえ飼い猫だってできないのだ。

 応えてくれ。君は、何を、語りたい?そして君は、そこにいるのか?いないのならば、どこにいけば会えるのか、教えてくれないか。私の鼻はもう、老いて使い物にならないからね。

なぜ私の書く履歴書は、つまらないのか?

 世は好景気だそうだ。転職市場も活況と聞く。それなのになぜ、私は延々と書類審査を通過できずにいるのだろうか。やはり、多くの労働者の実感どおり、さして景気は良くなってはいないのではないか。私たちは、空前の好景気だと、そう思わされているだけなのかもしれない。

 世論の脆さを指摘したところで、私の書く履歴書が劣っている事実は認めなければならない。これは、紛れも無い客観的事実だ。書類審査を一度も通過していないのは、誰が見ても真実だ。何が、劣っているのだろうか。私の新卒の頃の履歴書と比してみた。

 つまらない。読み物として、二流以下である。そこに、戦略がないのだ。読み手を無視している。優れた読み物とは、えてして、読み手にどういった感情を想起させたいのか意図し、そのために随所まで工夫が及んだものである。新卒の履歴書の場合、学歴や資格といった基本的な情報を読み手に正しく伝達することが最低限の目的である。これは、嘘さえ書かなければいいのだ。事実以上のところは、漠然と書かれた志望理由から読み手が勝手に想像してくれるだろう(そして、その想像と現実の答え合わせが採用する側にとっての面接の意義なのだ)。中途の場合、そこに具体的な経験が求められる。どういう成果を出してきたのか、明確に伝えられる履歴書でないといけない。営業や販売といった汎用性のある経験がない私の場合、普通に書いただけでは読み物として機能しないのだ。

 そこで、戦略が必要になる。読み手に、この人は未経験だが見込みがある、と思わせる戦略である。まずは、相手を知ること。相手は何を求めているのか分析する。的が見えていないと、それを射抜くことはできない。同時に、自分を正確に理解していること。自分を知らない乃至誤った理解のまま選考に挑んでも、自分をどう見せれば効果的かわからず成果も反省もない実りの乏しい結果を招くだろう。

 敵を知り、己を知る。そう、孫子の真髄である。

 これは、戦なのだ。

病んでいる自分を慰める会を自分で主催しちゃう同僚が憎めないのはなぜか?

 仕事で衰弱している同僚がいるようだ。ようだ、というのは、私は今彼とは直接顔を合わせる場所にいないため、他の同僚経由で耳にしたのだ、彼の近況を。なにやら、自分を慰める会を開催するとのこと。私にも、出てほしいとのことだった。

 自分を慰める会を、自分で開催してしまうのか。それは、少し今風に言うと”痛く”ないか。それを聞いたとき、正直そう思ってしまった。君ももしかすると、私と同じ感想を抱くかもしれない。ただ、結果として私は、間違っていた。彼は、”痛くない”。

 私が彼を”痛い”と感じたのは、安易に人に甘えることをよしとせず、個人的な苦痛は耐え忍ぶものだ、という古典的な武士道精神が根底にあったからだ。実際、私は剣道部だったが、顧問には「周囲からお前はもう休めといわれない限り休んではならない。お前が休むのを決めるのはお前ではなく、周囲だ」と言われながら厳しい稽古に取り組んだ記憶がある。こういった「他人に弱みを見せるのは恥」「個人の課題は基本的に個人で解決すべき」のような価値観を無意識にもっていた。昨今も少なからず見かける自己責任論のようなものだろう。

 しかし、このような私の人生への姿勢、つまり価値観は、はっきり、間違いだと断言できる。

 まず、仕事上で疲弊したのであれば、程度の問題はあるがそれは「個人の課題」ではない。「職場全体の課題」である。「病んでしまう人を輩出するような職場」に課題がある。個人でこの課題に挑むとなると、ひたすら耐え忍ぶか、かなり高度な戦略と実行力をもって職場の課題を虱潰しにしていくことしかできない。しかし一社員の働きかけで職場全体の課題を解消できるとは、私には考えにくいし、中途で挫折した際のリスクが大きすぎる。どちらにしろ、結果としては心身に不調をきたし取り返しの付かないことになりかねない。

 そうなると、病み気味の同僚がとった行動は非情に合理的である。彼の課題は、そこで働く我々の課題でもあるのだ。我々は、彼の話を聞かなければならない。その上で何かできることがなかったとしても、ただ彼の現状を知るだけでいい。あらゆる課題の解決は、現状の認識から始まるものだ。ただ、我々の住む社会には、立ち止まる者を横目で一瞥し声すら発することもかなわない聾啞の豚もいるのだ。我々は、少なくとも私と君は、友人のために歩を止めることもできる。声を発することもできる。いずれ、聾啞の豚を捌きソテーにして貧しいもののため、もしくは高貴なもののためにサーブすることもできるだろう。

 彼自身は、愚痴りたいから愚痴聞いてくれそうな人集めて飲むぜ!くらいの気持ちだろうが、私は真摯に向き合わせていただきたい。

 君も、優しくあってほしい。優しくない人は、少なくともこの世界にはいらない。