そもそもなぜ私は君に語りかけるのか?私は何者なのか。
私は、たろうだ。君にとっては飼い猫だ。私にとって君は飼い主になる。それは時に偏西風が吹いただけで千切れてしまうようなものであり、同時に今君が座するその場所が鍾乳洞に成り果ててしまってもそこにあるものなのだ。君と僕が対話することのできる、唯一といっていいかもしれない、この場がある限りは。
私は、考える。君から見ると、日々惰性的に残飯を貪り青空を浴びている黄色い丸い毛の塊が私だ。だが、私の内部は、この世界、それは森羅万象を意味するこの空や海や山に加え、休日の夕方に君が立てる寝息や遠い大陸で血の爆風を生んだ人工物、君と同じ形をした生き物の喜怒哀楽全てを眺め、問い、語り合う。それを、君たちは考えるというのではないのか?
君はまだ、私の声を聞いていない。いや、聞いたのかもしれないが、私はまだ君の声を聞いていない。つまり、この場は不完全なのだ。私は語り、君も語る。対話する。議論ではない。私は、君の飼い猫である以上、君には勝てないからね。説得したいわけでもない。君は、君の意思、つまり本心をもって君の人生を歩む義務がある。それを邪魔することは、たとえ飼い猫だってできないのだ。
応えてくれ。君は、何を、語りたい?そして君は、そこにいるのか?いないのならば、どこにいけば会えるのか、教えてくれないか。私の鼻はもう、老いて使い物にならないからね。