YellowCat たろうに聞いた!!

君の胸で香箱座りをしていたあの頃、僕はただ咽を鳴らしていただけではなかった。この世界の意味を、ずっと考えていた。アスファルトの焼ける匂い、彼岸花が咲いた用水路、速度超過した黒いクラウン、僕の毛が付いたブレザー。君が知っていたものも、知らなかったものも、ずっと見てきた。そして、考えてきた。君が生きるこの世界の意味を。その答えを、ここに、示したいと思う。

私が4年間の勤務で得た唯一誇れるもの

 辞意を伝えた。それ以外に、私に何ができただろうか。ここに残ることが、組織にとって、ともに働く仲間にとって、そして私にとって本当の意味で良いことなのだろうか。正直、今の私には、わからない。ただ、もう、あそこで働く私自身が、私には想像できなくなってしまった。職を辞す、たったそれだけのことに、それ以外の理由が必要だろうか。

 4年間在籍していたが、休職期間もあり、実質的に業務に就いたのは一年半ほどだろうか。それでも、同期の1人は、私の辞意に讃しなかった。彼は優秀な上、人格者で、数少ない職場で尊敬に値する人物の1人だが、その彼が私に辞すな、と言ったのだ。

 これ以上の賛辞はない。これを受け、私は益々辞意を固めた。4年間で、彼に、このような言葉を言わせることができた。それだけで、私は、多くの苦難を受けた甲斐があったのかもしれない。ともあれ、悔いなく、次へ進めると感じた。

 一生忘れないであろう永久の価値を持つ一言であった。とても、ながい、4年間であった。

人生の落ち目に瀕して

 私が患った病について、君に話しておきたい。「うつ状態適応障害」。これは、それぞれ異なる医者が私の症状につけた名称であって、当の私にとってはどちらも大きな違いはない。昨日までの君はうつで、今日から君は適応障害だと告げられても、私に巣食う脳を割るような頭痛や内臓をひっくり返す吐き気、食欲の代替品として与えられた地球の引力の何倍もの倦怠感が去ってくれるわけではない。ただ、今は違う。患った、と発したのは、それが過去の出来事となりつつあるからだ。

 こういった類の話を聞くと、不安感や閉塞感といった気分障害が思いつかれるが、私の場合は、身体的な症状の方がより深刻であった。特に、症状に名称が与えられる以前、つまり輪郭の見えない陰影に犯されつつあった時期は、身体の方が精神の意向を無視していた。それは、通勤の電車に乗れないことや、運よく身体を手懐けて車両に乗り込んでも職場がある駅で降車できない、といったところだった。結果として仕事は休職することとなり、長い一日を生暖かいベッドの上で過ごす日々を経た。

 私は確かに、人生の落ち目に瀕したのだ。

 そうなると、まず、人間関係が洗礼される。落伍した私を見て見ぬふりする者が大多数の中、小さくない神経と労力を払い、連絡をくれる者もいた。その、僅かに残された社会性が、今君に語らいかけている私を生かした。

 それから私は、建前で生きることを辞めたのだ。嫌悪に値する人物や物事は少なくない。それを世俗的な徳や綺麗ごと、正論で見栄えよく蓋をすることを辞め、直視することに決めた。嫌悪すべきものは、嫌悪すればいいのだ。私が地底より深く真夜中より暗く雪山より冷たい大陸棚を屈辱と失意を伴いゆっくりと下降していったとき、嫌悪すべきものどもは、何をしていたのだろうか。何を考えていただろうか。断言しよう。私のことではない、と。同様に私も、私にとって重要であるものを尊重することにした。それは海底に埋もれた私に訪れた光をもった深海魚たちであり、未だ運動を続けていた私の中核に住む私の本心である。

 私に命令を下す権利を持つ者は、私の本心だけである。私が服従する義務があるのも、私の本心だけである。

 君の負うものは、君が選んだものだろうか。悪意のある者や、過剰な善意のある者の荷物が混ざってはいないか。君もまた、君の本心の僕たるべきだ。

欠落と物欲

 物欲が無いのだ。何か欲しいものあるかと問われても即答できない。この世界にそういうモノ好きがいるのか私にはわからないが、私に贈り物をしようとする者がいるのであれば、ひどく困惑するだろう。

 なぜ私はものを欲しがらないのだろう。今のこの生活になんら欠落感を持たずにいるのだろうか。日常に満たされている、幸福といえる者ならば確かに物欲は湧かないのかもしれない。私は、日常に満たされてはいないから、それはわからない。欠落感を抱えている。それも、物質的なもので解消し得ることが不可能なほどの、精神的な、甚大な欠落を抱えているが故、物欲が後退しているのだと、私は思う。

 好人物に、例えば君のような者から、欲しいものはないのかと問われたときには即答できるような屈託の無い猫でいたい。

 日常を変えたい。私は、私の輪郭に沿わない枠を選んでしまった。ところどころが削れ、若しくは隙間が生じ、私の日常は流血と隙間風に塗れてしまった。君には、不幸に見えるかもしれない。少し前の私も、不幸だと感じていた。しかし、痛みや疼きは感じるが、不幸であるかはまた別の問題なのだ。君には難しいかもしれない。現実と認識の問題についてはまた、機会があれば君に説きたいと思う。ただ、私は、私の現実を変えていきたいのだ。それだけを、君に、言いたかった。

 今年のクリスマスには、欲しいものを考えておくよ。君もまた私に、教えておくれ。

労働と目標

 車が欲しい。同期が新車でGT-Rを買った。素直に、羨ましい。
 元々運転が好きで、上京の際も福岡から引越しの荷物を愛車に積んでセルフ引越しした。が、再度の引っ越しの際に駐車場の問題などで処分してしまい、それ以来維持費などを考えると所有できずにいる。
 車購入を目標に仕事を頑張ってみようか、と思ったが、すぐにやめた。モチベーションが上がらなかった。どんなに車が欲しくても、そこまで好きではない仕事を必要以上に熱心にやり続けることはできない。私はそこまで、車が好きじゃないのかもしれない。
 理想としては、やりがいの感じられる、または最低限やっていて苦ではない仕事をしていくなかで、その副産物として車を所有することである。労働の成果として金銭が不可欠であり重要であることはわかっているが、どうしても、個人と社会の接点としての労働、適切な精神的疲労・充足を獲るための労働に重きをおいて考えてしまう。金銭含め、物質的なものは、目標にはならない。目標とは具体的なものではあるが、その根底は精神的な感情に起因するからだ。物質的なものは本来手段であって、自身の願望を具体化させるための道具に過ぎない。道具ばかり揃えてその道具の用途を見出だせずにいる人たちは幸せだろうか。物理的に豊かになったところで幸せになれるとは限らないのだ。
 今より熱心に働き、社会的にも個人的にも充足したいのであれば、まずは、自分が人生に何を求めているのか、自分の感情を理解するところから始めなければならない。人は、感情を持つ生き物だからだ。

低気圧を背負いながら

 ここ数ヶ月、かなり心身的に疲弊し、外に出ることもままならない状態だった。TVに映される‘ご馳走‘を頬張る人間が同じ生き物とは思えないほど食欲が無くなり、夜は形だけ横になるも神経のスイッチの切り方が解らずに寝付けない。ただ、本棚に並んだ、読み終えた本の背表紙を眺めることしかできなかった。それらを読んできた結果、私がこうなったのだとしたら、私は、私に目隠しをして焼き尽くされつつある深い森に私を置き去りにした運命というものを実際に見ていたのかもしれない。背表紙たちもまた、炎に怯え横たわったまま動かない痩せた生き物を見ていた。このまま夜のうちに全て灰になるとしたら。ずっと、このまま、寝ていればいい。しかし、空が青く輝く兆しを見せ始めたら。少しだけ、時間が経つとするならば。それは、希望なんていう夢想に終わる我侭ではなく、時間という私を赦し裏切ってきた友への示達だった。君がまた、私を赦し誘うならば。 私は、皆と、酒を交わしたい。考え抜かれた軽快な言葉を交わしたい。新鮮な土地を訪ねたい。食欲という私たちの中に住む小さな巨人をもてなしたい。太陽と幾ばくかの雲の下、業火をもって肉や草を焦がしたい。意味を持てるものに対し、時間と労力を注ぎたい。
 それを、私の目の前に提示してみせた。手許にあった付箋に、できるだけ強く記した。私の目は、非情といえる運命を睨むためだけにあるのではない。それが理解できただけで、友は、私を赦したのだ、と確信した。
 もし、今君が、光の届かない大陸棚を息もできずにゆっくりと下降しているのならば。暖色が融和した温かいミルクティーにこの世界の敵意を見出したのならば。友は、必ず、君を赦していく。少しずつ、確実に。君は、そんな少々鈍足で無情とも思える友を、信頼しなければならない。彼は、君の信頼には、応えてくれる。もちろん、信頼だけでは少し心細いが、それが全ての起点になる。信頼するのは元手もいらない。
 私も君も、この世界を謳歌する義務がある。その務めは、死ぬまで終わらないだろう。確かに、寝ている場合ではないのかもしれない。